フジファブリック志村死因は?その真相は?不詳ファン、家族、実家からその死因に迫る

テレビ番組・芸能

志村正彦の29年間を振り返る

フジファブリックの元ボーカル・志村正彦は1980年に富士北麓の山梨県富士吉田市にて誕生しました。

10代半ばの頃に奥田民生に魅了されてミュージシャンを目指すようになり、地元の高校を卒業すると奥田民生が拠点とする東京に向かいます。

その後、2000年春に高校時代の音楽仲間とフジファブリックというバンドを結成し、インディーズ活動をスタートさせました。

幾度となくメンバーチェンジを繰り返したのち2004年には遂にメジャーデビューし、2005年発表の「茜色の夕日」が業界内で高い評価を受けます。

しかし、一般層の間ではなかなか受け入れられず、2007年に発表した自信作「若者のすべて」もそんなにヒットはしませんでした。

2008年以降もクオリティの高い曲を生み出し続けてブレイク間近を言われていたものの、2009年のクリスマス・イヴに突如死去して帰らぬ人となります。

彼の作曲家とての才能が評価され始めたのは死んでからの事で、まず桜井和寿・小林武史率いるBank Bandが「若者のすべて」をカバーし、この曲にようやく脚光があたりました。

さらに志村を除く3人で活動を再開させてから映画の主題歌「夜明けのBEAT」が大ヒットするなど、年を追うごとに彼の評価は高まっています。

志村正彦の死は日本音楽界の歴史の中でも最大の謎の一つ

死んでからのメンバーやファンの証言により、彼は爽やかなルックスの好青年・人格者だった事が判明しています。

そして、実家の家族との不仲・メンバーとの不仲などもまったくなかったようです。また、人格者のためドラッグが原因で亡くなった事も考えにくいと言えます。

亡くなる直前となる2009年に出演した様々なテレビ番組などでも元気な姿を見せており、志村正彦が何故若くしてなくなったのか、という事は日本の音楽業界史上最高の謎の一つとなっています。